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総統閣下の憂鬱

世捨て人の戯れ言

徳川家康、天下を取れたラッキーマン 

教養・歴史

後世に住んでいる私たちは歴史を逆から見ることになります。推理小説でいえば、犯人とトリックを知った状態で本を読むようなものです。推理小説を評価する際は犯人やトリックを知らない状態で読んだのと同じ心境で評価しないといけないように、歴史も結果を知らない状況で判断しなければなりません。

しかしながら、この呪縛はどんなに注意して意識しても逃れられるものではありません。我々は歴史の結果を知っていますから家康が天下を取るものとして歴史をつい逆から眺めてしまいます。

例えば家康が1616年の75歳に亡くなったのですが、当時の医療水準を考えれば関ヶ原が終わった直後の60歳前後からいつ亡くなってもおかしくない状況でした。ですから、ある意味長寿という幸運に恵まれたのも天下を取れた要因でしょう。

実際、徳川将軍15人の中で彼より長命だったのは最後の慶喜だけですので(彼は西洋医学が導入された大正時代まで生きたので)やはり例外的な長寿です。

寿命の話がでましたが、秀吉から天下を奪うためには幾人かの存命しては困る人達がいました。まず、秀吉の弟の羽柴秀長。彼が秀吉より早く亡くなったこと、そして子供を残さなかったことは豊臣政権の大きな痛手でした。

そして、秀吉が家康より先に亡くなります。更に豊臣政権の中枢である五大老前田利家が亡くなりました。この辺はまあ、家康より3歳から5歳ぐらい年上ですので別に普通のことですので順当といえば順当です。なお関が原の合戦の発生条件は利家の死が必要条件となっています。

そして、関ヶ原後に加藤清正結城秀康などの豊臣シンパの有力な武将が亡くなっています。例えば、家康が関が原から数年後に亡くなり、結城秀康が存命でしたら秀康の弟である秀忠は大坂の陣を起こせなかったと思います。

そもそも大坂政権が文治派と武断派で争いなどせずに秀吉死後に秀長が存命で一枚岩であれば、家康が付け込むスキすらありませんでしたから。家康は天正14年(1586年)に大坂城で秀吉と謁見して家臣の道を選んだ時点で独力で天下を奪うのを諦めざるえない状況となりました。そして家康は秀吉より早く死ぬ可能性も当時としては十分にありえました。

ですから家康は「天下をもぎ取った」というよりどちらかと言えば「天下が落ちてくるのを待っていた」という方が正解だと思います。歴史の年表を見ると秀吉の死後は着々と計画的に天下をもぎ取った感じになりますが、実際にはかなりの幸運に恵まれていたと思います。

もちろん天下が落ちるのを待っていたといっても、落ちるように色々策略を尽くしているのは言うまでもありません。また、家康は長寿になる努力を鷹狩を含めて一生懸命に努力しておりました。それになにより家康には天下を取るだけの実力と資格が十分にありました。

ちなみに大坂の陣は流石に年齢的に寿命が迫り、なりふり構っていられなくなった家康が憂いなく安心して死ぬために起こした「待たない」合戦ですね。珍しいですね。 

歴史にイフは禁物ですが、秀吉の死後、もう一度歴史を繰り返せば家康が同じように天下を必ず取れると言い切れないでしょう。というか、結構薄氷を踏むようなバランスの上で天下を取っていると思います。後世からみたら徳川15代260年の盤石の歴史の結果を知っているのでそれがついつい当たり前であったりする様に見えるだけです。